モンド・あほう ~Monde AFO~

光市母子殺害事件、他方の視点

e0239565_0313996.jpg裁判は身近か? 殺人は? 身近でないようで身近、だ。

これまでに私は裁判を傍聴する機会があった。
眼の前で普通に見える被告が、人を死に到らしめたり、
放火したり、強盗を犯したりして、裁きを 受ける。

そして、何年も牢獄で生活をする人物が、まさに眼の前にいる事実。
『どうして、この人はこの道を選ぶに至ったのだろう』 
いつもそう、思った。





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今回の光市の判決。あまりに重い事件で、誰もが遺族の本村さんに同情した。
マスコミは本村さんの13年間の歩みにふれながら、事件の被害者・遺族を
めぐる法制度が大きく変わったことを挙げる。・・・しかし、の視点で考えたい。 


それは、加害者側、そして裁く側、の視点だ。
その点で、きょう(2012年2月22日)の朝日新聞が興味深い。


 ※リンクはきょうの朝日の社説。しかし、興味深いというその記事は
  ネット上では有料コンテンツになっていてリンクできなかった
  その記事 ⇒ 『少年の心と死刑見解相違』 38面/2月22日・朝日
   http://www.asahi.com/paper/editorial.html





e0239565_0403287.jpgわかりやすく、その興味深い記事中の2つの言葉を取り上げることで、
私なりの『他方の視点』を考えてみたい。

     『4人の裁判官のうち1人が、反対を唱えた。
      全員一致ではない死刑判断は57年ぶりのことだ』

57年ぶり、である。驚く。それだけ今回の裁判が揺らいだということ。
死刑に反対した裁判官は、被告が精神的に大人になっていなかった事情を
くむべきだと訴えている。そのきっかけとなったのが、被告が12歳の時に
直面した母親の自殺で、精神的に成長が止まったと指摘している。

さらにもうひとつの言葉。
   『 拘置所では(人間的に)成長させる態勢やプログラムがまったくない。
     罪の重さを感じていくためにも、裁判中から成長させるための
   プログラムを組んでもらいたい 』  ・・被告の弁護団長の言葉だ。


e0239565_0411398.jpg         そう考えていくと、私はこう感じる。
        「被告は『罪』を『罪』だと思っていない」 
         その行き場のない不幸な事実。
    
2つの言葉から考えたいのは・・・
 ・過ちであることを理解できない人間を未然にどう救うべきか。
 ・過ちを犯した人間を更生し、過ちだと認識させるにはどうすべきか。

「人殺しなんてありえない」 そりゃ普通はそうだ。
でも、それがわからないのだ。普通じゃないから。
ただし、そもそも普通ってなにか?

例えば。
私たちがいま、こうやってPCと向き合っているたかだか1時間ほどの間に、
日本国内で約4人が自殺している。自ら死を選んでいる。信じ難いが、事実だ。


e0239565_0432488.jpg光市裁判の被告は12歳の時に、最愛の母親をその信じ難い
事実で失っていて、その普通ありえないと思ってはいるけれど
実は普通に日々起きている悲劇によって、彼から「普通」の
感覚というものを奪い去ってしまったと仮定するならばどうだろう。

人をあやめた罪はぜったいに許されない。でも、その背景に
あったものは一体、何か? それを解明しないと、同じ事件は
確実に起きる。

冒頭、
『裁判は身近? 殺人は? 身近でないようで身近だ』、と書いた。


        もし、周囲の急激な変化(例のように自殺は多いし、最愛の人の事故死や
        酷い失恋など)をきっかけに自分や近しい人の「普通」が壊れて暴走したら。
         信じたくはないが、身近に起こりうる事態と考えなくてはならない。

        これだけ関心を集め、社会が動いた裁判。
        この事件のみや、本村さん(被害者・遺族)の悲痛に同情するだけでなく、
        普遍的に、加害者予備軍を未然に救い、犯罪者を更生させる司法の在り方を
        考えなくてはならないと私は思っている。

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by targa8 | 2012-02-23 00:48 | ⇒journalism